【目次】

千年山
唐内坂の御仮屋
織座の御茶屋
松峯山長栄寺・大行院
黄檗宗・法雷山慈雲院
土淵川とその周辺
さくら林
富田尾屋敷

主な資料
あとがき

本文内容PDF(2頁分)

あとがきより

 平成17年に『半穂独言集』を出してから今年で5年目、丁度5冊目になる。これも偏に北方新社社長の木村義昭氏の御厚意と、同社編集部の二部洋子さんの御力添えによっている。加えて資料の閲覧に御協力して下さった弘前市立図書館の職員の皆さん、挿絵の写真撮影に車で各方面へ便乗させてくれた弘前古文書教室会長・鳴海紀氏、ほかいろいろな方々の励ましがあったればこその賜と深く感謝している。紙上をお借りして厚く御礼を申し上げる。
 ありがとうございました。

 本稿は平成20年に、「弘前古文書教室」の講座としてとりあげた教材からの抜粋である。
 今回この『失われた弘前の名勝』の出版を思い立った理由は2つある。
 1つ目は「年のせい」である。自分ではまだまだ若いと思っているがどうもそうではないらしい。というのは廻りの方々の対応が妙に親切になってきて、何となくなるほどと気づくようになってきたこと、子供のころのあれこれが懐かしく思うようになってきたことである。
 たとえば街を歩いていても、土手町の四つ角で信号を待っている間に、「かくはデパート」を思い出す。近所の餓鬼どもと、何回となくエレベーターを乗り降りして叱られたこと、下駄履きで「汽車」を見に停車場(駅)まで歩き、見飽きるまで改札口によりかかっていたことなどである。
 今では覚えいている方も大分おられなくなったが、あのころはトラックも少なく信号もなかった。リヤカーと馬車が荷物運搬の主役だった。道路の真ん中でこの馬と牛がところ構わず「おしっこ」と「大」をやらかしていた。
 農家では化学肥料をあまり使わず、主として「人間」の「もの」を使っていたが、牛馬の「大」も貴重であった。湯気のあがっているほやほやの「それ」を独特のちり取りでかき集めて肥料にしていたものである。また農学校(玉成)では教育の一環として生徒に「実技」-このかき集めを課していた。
 あれやこれやいろいろ思い出されるが、ほろりとくるのは同級生また友達の住んでいた家が街から消えてしまったことである。あの家ではどうしたのかなぁとか、奴も死んでしまったのかなぁなどと、さまざまな思いに駆られる。
 つまり懐古的になったことが今回の発端のひとつである。

 理由の2つ目は永年図書館通いをしている中から生まれた。本稿でとりあげた資料の大半は『弘前藩庁日記』(『御日記』)からのものである。
 参勤を終えて帰国した殿様は、在国中どんな日々をおくっていたのか、造成された施設でどんな催しをしていたのか、それが藩の財政にどれだけ負担をかけていたかなどについて紹介したいと思ったからである。
 千年山、織座、からない坂(常盤坂別荘)、富田尾屋敷は藩主と御家族のいわば別荘であった。対して慈雲院、さくら林、土淵川とその周辺と大行院は、庶民また文人の数少ない「心の癒し」場所であった。ここでの「楽しみ」も紹介したいと思った。これが2つ目の理由である。

 『弘前藩庁日記』は藩政期、二百年にわたって書き綴られてきた藩の公式記録である。しかし堅い呼称とは「うらはら」に、町方についてのくだけた内容も非常に多く、担当した「日記書き役」にはさまざまな考えを持った方々がいたことをもの語っている。
 記事のなかには、後世に伝え、後世に推理まがいの判断に委ねたかのような「ふし」さえ見うけられるものもある。もちろん『御日記』以外の資料にもいえることだが、情緒的、文化的な記録も豊富であり、是非一読を御すすめしたい。
 貴重資料所蔵で全国指折りといわれる弘前市立図書館には、このほか未知、悲喜こもごもの資料も無尽蔵にある。
 『半穂独言集1~5』はこれらを踏まえて、郷土を掘り起こし、郷土の事実を探ろうとする方々の増えることを念願すると同時に、弘前で生まれ育ったことに感謝した冊子である。

 最近「はやりもの」に走り過ぎる傾向が目立つ。新しい事をことさらに宣伝し、大方もそれに飛びつく。たとえば「白神山地」が世界遺産に登録されて以来、観光バスが急激に押し寄せ、「白神中」が人の熱気でむんむんしている。
 幾世紀となく未踏静寂の中で培われてきた深山幽谷であり、これを遺産として維持し後世に伝えるべきものだった筈である。行方が気にかかる。
 かっての「弘前の名勝」も、時代の移りには抗すべくもなく、ほんの一部に名残を止めているに過ぎない。やがては無くなるものとしても、人知のかぎり、手を尽くすべきではなかろうか。




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